『シュランメル・ファミリーとシュランメルン』
 〜シュランメル音楽を世に送り出したシュランメル兄弟の生い立ちと、
                         その時代背景について〜

1、カスパー・シュランメルと妻アイロジア

シュランメル兄弟の父カスパー・シュランメル(1811-1895)は、オーストリアの北チェコとの国境に近いリッチャウの町はずれヘールマンスで、農夫ヨハン・シュランメルと妻カタリーナの子供として生まれた。彼はクラリネットの上手な少年だった。12歳の頃から町の小さな楽団で、教会の行事や結婚式などで演奏していた。1833年、カスパーは村の機織り娘ヨゼファー・イルシークと結婚した。この年の8月27日、息子コンラードが生まれた。1837年4月25日、カスパーの妻ヨゼファーは肺結核にて死亡。1846年、カスパーは息子コンラードを連れてウィーンに出た。落ち着いた先はウィーンの郊外ノイレルヘンフェルト(現在のウィーン16区オッターリング)。当時ここは庶民の娯楽施設の多い所だった。ここでカスパーは20歳年下の民謡歌手アロイジア・エルンストと親しくなった。1850年5月22日、ノイレルヘンフェルトNo.119(現在のGaullacher gasse35)でヨハン・シュランメル(1850-1893)が生まれた。弟のヨーゼフ・シュランメル(1852-1895)は1852年8月3日、オッタークリングNo.226(現在のFriedrich-Kaiser gasse11)で生まれた。やがて兄弟は両親から典型的なウィーン音楽を受け継ぐことになった。

2、コンラード・シュランメル

シュランメル兄弟の義兄にあたるコンラード・シュランメル(1833-1905)は、父カスパーに連れられてウィーンに出た。彼は卓越したヴァイオリニストであった。1854年、軍役に服し歩兵連隊狙撃兵となった。1859年、イタリア戦線モンテベローの戦いで敵の銃弾を受け、右腕の自由を失う。帰還したコンラードは傷痍軍人として軍の任務に従事する。1861年、アンナ・ホルクマーと結婚。1866年8月31日、彼は突然軍隊を解雇される。この年の春に勃発したオーストリア軍とプロシア軍の戦闘に、オーストリア軍は7月8日ケーニヒグレーツで大敗を喫したのだった。コンラードは当局から「手回しオルガン弾き」のライセンスを得た。間もなくウィーンの街角や中庭で、背が低く長いひげを胸まで伸ばした男が手回しオルガンを弾く姿が見られるようになった。人々は彼を「髭のシュランメル」と呼んだ。コンラードは町の名物男になっていた。

3、シュランメル兄弟

シュランメル兄弟は幼い頃からヴァイオリンを習っていた。1861年1月6日、父カスパー・シュランメル50歳の誕生祭がノイレルヘンフェルトのGolden Stuck(金の漆喰の館)で催された。この時ヨハン11歳、ヨーゼフ9歳。兄弟は父と一緒にヨーゼフ・ランナーのワルツを見事に演奏した。兄弟にとって記念すべきデビューの日となった。息子達に音楽を教えていたのは両親だったが、やがて父カスパーは兄弟の音楽的才能が優れていることに気がついた。彼は兄弟をウィーン・コンセルヴァトアールに送ることを決心した。だが、これは大変なことだった。コンセルヴァトアールに入学できるのは、いわゆる「良家の子女」で、一介の町の音楽家にとっては夢のような話だった。しかしカスパーは息子達を働かせて学費を捻出することにした。幸いなことにシュランメル・ファミリーのファン、Fiakers(辻馬車組合)が彼らを後援することになった。
兄弟がコンセルヴァトアールに席をおいていたのは兄ヨハンが1862年から1866年まで、弟ヨーゼフは1865年から1866年までである。二人はまだ子供だった。ヨハンはクラシック音楽志向で問題なかったが、ヨーゼフはいつも父カスパーを悩ませていた。兄弟の師ヨーゼフ・ヘルメスベルガー教授(コンセルヴァトアール校長で有名なヴァイオリニスト)も彼には特別目をかけていたのだが、彼は学業を怠けては、ウィーンの郊外で軽い音楽を楽しんでいた。コンセルヴァトアールを出た兄ヨハンは、ヘルメスベルガー教授の世話でヨーゼフ・シュタット劇場オーケストらのメンバーになる。ヨハン16歳、父カスパーの自慢の息子になった。1868年、ヨハンは軍役に服すことになる。そして1872年11月17日、彼はロザリア・ヴァイヒセルベルガーと結婚した。ヨハンが除隊になったのは1875年10月6日だった。一方、軍役を外れたヨーゼフは1869年12月、オリエント巡業の旅に出た。メンバーは歌手に叔母のカタリーナ(兄弟の母アイロジアの妹、通称カティ)、ギターは叔父のシュッツ、それに二人のヴァイオリニストと歌手一人。最初の目的地はトルコ。彼らは近東の人々にアピールした。コンスタンチノーブルでは、ランナーのワルツが評判になった。旅は更にカラチ、ベイルート、アレクサンドリア、ポートサイド、カイロ、イエルサレムへと続く。ウィーンに帰ったのは、1871年5月だった。1年と5ヶ月に及ぶ旅は大成功だった。ヨーゼフは1874年7月11日、19歳の民謡歌手バルバラ・プロハスカ(通称ベティ)と結婚した。彼はすでにポピュラー・ミュージック界のヴィルトーゾになっていた。
除隊後の兄ヨハンは、再び”まじめ”な音楽家の道を歩んでいた。マーゴールド・サロン・オーケストラのメンバーになっていた彼は、時々は帝室歌劇場でも演奏するようになっていた。いずれも恩師
ヘルメスベルガー教授(歌劇場のコンサートマスター)の推薦によるものだった。

4、社会情勢

ウィーンでは1873年5月1日、万国博覧会が開催された。しかしその数日後、ハプスブルグ帝国を震撼させる大事件が発生。「暗黒の金曜日」株価暴落、バブル経済が崩壊したのだ。社会情勢は世紀末に向かって急速に変化していった。株価大暴落の翌年、1874年4月5日からアンディア・ウィーン劇場で上演されたヨハン・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」は市民を熱狂させた。彼らはシュトラウスの美しいメロディーと豪華な舞台に現実を忘れることのできる安息の場所を見い出したのだった。また、郊外のホイリゲや市街に立ち並ぶ大小のジングシュピールホール(歌芝居小屋)では、ネストロイ・ライムント時代が再来したかのように、ギーゼル・マリーやエドムント・グシュルベルガーなどのエンターテイメントが人気を博していた。

5、成功

1878年、シュランメル兄弟は第一級のギタリスト、アントン・シュトロマイヤーを誘ってトリオ「ヌスドルファー」を結成した。時機を得た賢明な判断だった。彼らの才能が一気に開花したからだ。トリオ「ヌスドルファー」の人気は急上昇した。当時ウィーン・フィルの有名な指揮者ハンス・リヒターは、「今まで聴いたことがない素晴らしい音楽だ」と言って彼らを絶賛した。また、辛口の評論家ハンス・マカルトも彼らの音楽を高く評価した。ヨハン・シュトラウスもヨハネス・ブラームスも彼らのファンだった。1884年、トリオ「ヌスドルファー」はクラリネットの名人ゲオルグ・デンツァーを加えて「シュランメル・カルテット」が誕生した。彼らの人気は不動のものになった。 オーストリアー皇太子ルドルフは彼らの最も重要なサポーターだった。貴族や上流階級のご婦人方は競って彼らを自宅のサロンに招いた。

6、旅行

シュランメル兄弟のヒット曲はピアノ譜になり、次々と出版された。その名声は国内外に広まった。ツアー(演奏旅行)もリンツ、ザルツブルグ、チロル地方などの国内に留まらず、国外へと移っていった。1888年1月、ブタペストでのコンサートを皮切りに、ベルリン、フランクフルト等ヨーロッパ各地を廻り、翌1889年12月ウィーンに戻るまで三度も長期間大旅行を行っている。

7、終焉

1890年1月8日、再びヌスドルフで「シュランメルの夕べ」が開かれた。その頃ヨハンは慢性の心臓病が悪化し、度々起こる発作で演奏不能に陥っていた。そこで将来を考えた彼は、ジングシュピール・ホール(歌芝居小屋)の経営認可を受けた。1891年、デンツッァーはシュランメル・カルテットを去った。そして1892年、デンツァーとシュトロマイヤーはブート・シュエッティ兄弟(ヴァイオリンとハーモニカ)と「デンツァーとシュトロマイヤー・カルテット」を組織した。1893年6月17日、ヨハン・シュランメルが死亡した。ヨーゼフはヴァイオリニストのクノール、従弟のアコ−ディオン奏者アントン・エルンスト、ギターはカール・ダロカという編成でカルテットを組織した。しかし、大旅行以後体調を崩したままのヨ−ゼフは、1895年11月24日この世を去ってしまったのである。

(文、トーキョー・シュランメルン 木村 智)